FIAT PANDA(フィアット パンダ)とは、イタリアの国民車フィアット500(チンクエチェント)の後継車とも言われる”アシクルマ”として、1980年から20年以上も活躍した「四角いハコ型」の名車!
車名は動物の「パンダ」そのまま。当時、主な販売市場として中国を想定していたからだそうです。
「基本に忠実」と評される初代FIAT PANDA。なぜならクルマの基本は「箱に車輪を付けたもの」だから。前後左右のすべてが平面で、ガラスも平面。四角いハコ型の車の代表格と言っていいくらい、シンプルかつ完成されたデザインを持つ初代フィアット・パンダなのです。
●初代 FIAT PANDA 1980-2003
最初のフィアット・パンダが登場したのは1980年。マイナーチェンジを繰り返しながら、21世紀となる2003年まで製造されていたのだから、旧車と呼ぶにはまだ少し早いと感じますね。実際、イタリアではまだまだ見かける機会も多く、現役感さえあります。
1980年代といえば、自動車全体が現代的となり見た目や仕様も贅沢になってきた頃ですが、そこにFIAT社が送り出してきたのは簡素な作りのブリキ箱みたいなクルマで、むしろ新鮮なほどだったという。
しかし、決して貧相ではなかったのは、洗練されたデザイン性を有していたからなわけで、今なお愛される名車となった理由の一つです。チンクエチェントことFIAT500と双璧をなすイタリア車の代表格と言えるでしょう。
そして、その初代PANDAのデザインを担当した人物こそがジョルジェット・ジウジアーロです。
■ジウジアーロの最高傑作!
イタル・デザインを主宰する鬼才ジョルジェット・ジウジアーロ。当時すでにクルマ業界では大御所といえる存在のデザイナーでしたが、FIAT PANDAのような大衆車を手掛けたその仕事ぶりはかなりセンセーショナルだったそうです。
一見、単純に鉄板を組み合わせただけのようにも思える「四角いハコ」の初代パンダ。でも、綿密な計算なのもとに製造されています。平面を主体とするボディパネルも、本当に平面だけで構成されていたとすれば目の錯覚で凹んで見えてしまいます。なので、微妙に分からない程度に張りを持たせてあります。また、そうでないと、振動によって薄い鉄板が共振音を生じてしまう(ビビる)。
パンダに限らず、フィアット500も、シトロエン2CVもオリジナル・ミニもVWビートルも、先にデザインありきで誕生したのではなく、どれもエンジニアリングの観点から徹底的に無駄を排して追い込んだ結果として素晴らしい形に収まったという経緯を持つ。つまり、これ以上はもう一切手を入れられない、という境地で到達したカタチなわけですね。
必要な大きさはこのぐらい、その中に室内スペースをどう取って、めざす重量をこの程度に抑えて…等々、理屈が先にあって、それを最小限の材料と工数で、想定するスペックとコストになるよう作るにはどうすればよいのか、逆算しながらカタチが決定されていったのでしょう。まさに工業デザインの王道です。
ジウジアーロ自身、後に初代フィアット・パンダを「最高傑作」と称したという逸話もあるそうな。
■簡素なのに『デザインされてる感』が満載のインテリア
初期型のフィアット・パンダは特にスゴイ。そもそも内張りなんかは最低限でそこら中が鉄板むき出しで、いかにも機能最優先といった潔さ。
かの有名なパンダの『ハンモック・シート』も、マイナーチェンジモデルのスーパー(1982)まで備わっていましたが、鉄パイプの枠にスプリングを橋渡しして布を張っただけという、まさにハンモック仕様なシートだったのです。しかしその座り心地は最高と称される。
ダッシュボードもスカスカの空っぽで、広いスペースの開いたシンプルな棚。でも収納性は抜群で、自由度がめちゃくちゃ高い。そして棚の縁に挟んである灰皿は両サイドにスライドして好きな位置に動かせるという代物…! ギミック感満載です。
■チンクエチェントの後継車はフィアット・パンダ?
戦後イタリアのモーターゼーションに多大な功績を残し、現代においてもイタリア大衆車のアイデンティティであり続けるのはご存知の通り『FIAT500 フィアット・チンクエチェント』です。
あの丸くて小さいルパン三世の愛車は、2代目チンクと呼ばれる『Nuova500 ヌォーヴァ500(=新チンクエチェント)』で、1957年から1975年まで生産された歴史的な名車ですが、その直接的な後継とされたのはフィアット126という車。
このフィアット126が構造的にもチンクエチェントを引き継いだわけですが、大衆のための安くて丈夫なクルマとして爆発的ヒットを得て支持されたという点で、初代フィアット・パンダこそがFIAT500の後継車とも言えるわけです。
チンクエチェントも、必要な条件を最小限のパッケージに収めるという観点から、結果としてあんな可愛いクルマになりました。その存在の定義付けと、アプローチ手法は、ジウジアーロの場合も偉大なるダンテ・ジアコーザに通じるものがありますし、FIATの社運を賭して開発を外部委託したという点でも共通するのでした。